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明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手 [東北地方太平洋沖地震・東日本大震災]

津波被害が”想定外”にされつつある中、実は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波のいい伝えを元に、高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を作った村長がいた。
その防潮堤は今回の大惨事を引き起こした津波でさえ、しっかりと受け止め、集落を守っていた。
防潮堤建設時には反対の声が多く、村長は頑として高さ15mを主張、完成させたのだ。

現在、その村長はいない。
今回の防潮堤の役割を見る事も無く、亡くなっているとの事。
ただ、「頑としてよかった。集落を守れてよかった。」と、空から思っているだろうね。

”想定外”というのは簡単であり、信念を貫いて批判にさらされ、それでもなお主張を通す事は難しい。
その正しさを証明する事は、特に今回の様な事態では、むしろ証明されない方が良かったとも言える。

”想定”とは、ここまでやってこそなのかも知れないけれど、言い伝えを守り、通しただけだとするなら、”想定”では無く、”事実””史実”だろう。
”想定外”なのではなく、”史実”を考察しなかった事が災いである・・・。



明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm?from=navlp
(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
---------------------------------------------------------記事転載↓



津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。

 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。

 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。

 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。

 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
(2011年4月3日22時05分 読売新聞)

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コメント 5

袋田の住職

リーダーにはその信念が求められますね。
歴史に学ぶということも大事なことだと改めて思いました。

by 袋田の住職 (2011-04-09 09:21) 

as

堤防の高さも大切ですが、「津波てんでんこ」と言い伝え、津波が来た時は必死で高台に行けという教えの効果も大きかったようですね。堤防のようなハードの面とこのようなソフトの面、この二つが揃っている場所にもかかわらず、これだけ甚大な被害が出たことは残念でありません。多くの人命を奪った大惨事からの教訓をひとつでも多く未来に残してほしいです。それが犠牲者への弔いにもなることでしょうから。。。
by as (2011-04-09 20:15) 

きまじめさん

どこの村か聞きはぐりましたが、平安時代の大津波の時の慰霊の石が山の上にあって、
津波が来た時は、その石より上に逃げろと、延々と言い伝えられていたそうです。
今回、それを守って村民みなが助かったということです。
「そんなことはありえない」などといって、先人の言葉をないがしろにしてはいけませんね。
by きまじめさん (2011-04-10 01:01) 

HOKUTEN

>袋田の住職さん
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」を地でいく感じですね。
津波の実績を都合よく過小評価することなく、事実に謙虚で実直であった。
危機管理としては当然の態度なのですがね・・・。
その、事実に対して最も謙虚であるべき原発があれでは・・・。



>asさん
「てんでばらばら」という表現にすると判りやすい言葉になりますね。
てんでんこ=てんでに、ここに。個々それぞれで。
友人、知人、隣人、ともかく個々に逃げろ。様子を見に行くより、まずおのおのが高台に逃げて生き延び、その後に探しあえって事ですから、厳しい言葉ですよね・・・。
友人、知人、隣人、逃げているのを信用して、自らも逃げ延びる事を優先せよって・・・。

小集落では15m高の防潮堤を作れても、海岸線では現実的ではないですから、避難場所とか土台のしっかりした避難用構造物とか、そういった対策になるでしょうけどね。
今回は多くの映像も残った。
100年、200年、残していって未来の防災に役立ってほしいですね。
by HOKUTEN (2011-04-10 01:06) 

HOKUTEN

>きまじめさん
こちらのブログで扱われているのは明治と昭和初期のものですが・・・。
http://parasiteeve2.blog65.fc2.com/blog-entry-614.html
こちらのブログでは動画のリンクもありました。

地形的に難しい面もありますよね。山がすぐ海に迫っていたならそれも可能でしょうが、漁業がメインだと漁港から余りはなれて家があるというのも不便ですしね。
どう生かして今後の都市計画にするのか・・・。
奥尻島・青苗地区では住宅は高台になっているようです。
by HOKUTEN (2011-04-10 02:30) 

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