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南雲研究室ブログ「オウム松本裁判」 コメントまとめ [社会 ・発言 ・ニュース]

これまでのやり取りと、その後、考察した事を、少しまとめてみようと思います。

これまでのコメントは南雲研究室で。

ここまでのコメントは、意見を聞きだすために意図的に短くしましたが、ここからは詳細に語らせていただきます。ので、長いです。ご指摘がありましたら、コメントを頂けますよう・・・。
検察は、先ず、「正しい手続きによって証拠を揃え、正しい手続きによって提出しなければなりません。」
「当たり前だ」と言われてしまいそうですが、まず、前提として。
しかし、その証拠を採用し、判断し、評価するのは、その裁判の長たる「裁判長」になるわけです。
その裁判長に、事実評価をする「よすが」として、「正しく適法な」手続きを経て証拠や情報を提出されることが必要とされています。
だからこそ、「正しく適法な」手続きを経ていない、「安易なマスコミの垂れ流す情報に頼ったコメント」を、あそこまで嫌ったのだと思います。「不確かな情報にもとづいて事実を断定的に決め付けることに疑問を感じるのです。」と言うのも同じでしょう。

(ただ、ここでは私はまだ安易な一コメントで終わると思っていたので、司法の厳格な意見をいきなり持ち込まれた事で、一瞬混乱したようです。)

正しい手続きによって証拠を揃え、正しい手続きによって提出されたその証拠を採用し、判断し、最終評価するのは、その裁判の長たる「裁判長」になるのですから、その、裁判官の判断による判決は、適法な手続きによる、適法な判断である。となるのである。(裁量がその通りかどうかは別として)
その立脚点があるからこそ、裁判員制度に話を替えた時に、「裁判員は公判に提出された証拠を直接取調べることができるわけですから問題ありません。」となるのであり、「問題ありません」とは、つまり、後に氏が書かれている通り、「何が正しい判断かということについてですが、裁判員は法令の制約には服しますが、証拠に基づいて自由に事実認定と量刑を行うことができます。『その結果くだされた判決は適正な手続による「正しい判断」といえます。』」になるのだと思います。
簡単に書くと、「裁判員が出された判断は、適切な手続きによる証拠に基づいたものであれば、適法である」という意味だと思います。

ただ、気を付けなければならない点としては、「『適正な手続き』がなされても『正しい判断』にならない場合もある」という視点」
これは外せ無い事と思はれます。
後に、an_accused氏が書かれた、『「警察・検察が一生懸命調べた上で主張しているのだから間違いないだろう」などと思い込んでしまう人は、違法に収集された証拠を排除することができなかったり、検察のストーリーを鵜呑みにしてしまったりしてしまうのです。』
と言うことを、肝に銘じる必要性があると言うことですね。
私の意見として、「正しい手続きは正しい判断の『よすが』または不法を排除する『フィルター』であって、少なくとも、絶対の立脚点にはならない」と思っています。

『他に「正しい判断」を保障する手段があるのですか? だったら提案していただきたいです。』
に対しての答えもこれに立脚し、今のであっても他のであっても、「正しい判断を”保障”する手段は無い」と考えます。
保障まで出来る、完璧な手段は無いという意味です。「正しい手続きを経てから判断に移行する。その方が間違いを起こしにくい」というのが、先人達の知恵でありましょう。
ただし、もし完璧な手段があったとしても、『「結果オーライが許される」と考える人や、「警察・検察が一生懸命調べた上で主張しているのだから間違いないだろう」などと思い込んでしまう人までも、間違いなく判断してくれるとは言えない。と言えると思っています。

ですから、『結局、テレマーカーさんは「絶対的に正しい真実」が自明のものとして存在することを前提に意見されてるように思えます。』と言うのに答えるとしたら、むしろ、「絶対的なものは存在し無いと、絶対的に思っている」ので、逆に「絶対的なものが存在する」ように見えたのかもしれません。
感覚的に言うと、「ネガの裏焼き」です。(余計わかんない・・・)

気付いた点として、南雲さんのやり取りで見掛けたのですと、
「再審請求は一般的に認められるべきであり、新証拠が取り調べるに値しないものであれば却下されるという扱いで何か問題があるのでしょうか?」
「その主張が事実に反するならば裁判所によって棄却・却下されればよいだけのことだと思います。」

に、対して
「裁判所によって棄却・却下されれば良いというのは司法側の思い上がりでしかありません。」

と言うのは、いささか厳しい言い方だったと思えます。
上文途中に書きました、
<法廷のシステム上、「正しい手続きによって証拠を揃え、正しい手続きによって提出されたその証拠を採用し、判断し、最終評価するのは、その裁判の長たる「裁判長」になるわけです。」>

と言う私の認識ですと、たとえいかなる証拠を調べ、提出ようとも、法廷のシステム上、裁判所側が最終的に判断しているのであって、受理か却下は、検察側・弁護側が裁量で出来る事ではなく、「裁判所の判断を受け入れざるを得ない」(表現が適切かは別として)のではないでしょうか。(違ったらご指摘ください)
「受理か却下は、検察側・弁護側が裁量で出来る事ではなく、「裁判所の判断を受け入れる」と言うのがシステムであり、規範であるとしたら、「司法側の思い上がりでしかありません。」と言ってしまうのは、いささか厳しかったかと・・・。
ここは推測ですが、「棄却・却下されればよいだけのことだと思います。」の中に、何度も苦渋を呑んできたのを感じるのは、想像を膨らませすぎでしょうか・・・。
そして、おそらく、一旦は裁判所の判断に則って受け入れる事が規範であるが、不服であるなら再度の上告、或いは再審請求と言う権利が保障されているのだと理解しましたが・・・。

私が中で書いている、「審理して何があったかを明らかにするのが裁判なんでしょ? だったら戦略で長引かせないで、明らかにしてください!」と言うのは本心です。
語気が荒くなっているのは申し訳無いですし、これは現場に居ない者の勝手な発言です。直接の関係ではなく、しかも司法を知らないが為の発言です。理想論だと思われるかもしれませんし、「明らかにするがために、法廷戦略をしているのだ」と、指摘を受ける事と思いますが・・・。

少し変わりますが、「的確な事実認定を行なうには、「違法収集証拠を排除する能力」と、「適法に収集されたけれども、さまざまな事実を指し示している証拠群の中を組み合わせて、ある一定の自然なストーリーを構築する能力」が必要です。」「これは、法律学の専門教育云々ではなく、証拠と向き合う際に求められる慎重さ、冷静さの問題であると考えられています。」
この、「事実認定能力」(始めて聞きました)の部分は、私は教育として取り入れたとして、十分身に付く能力だと思います。思考訓練とでも言えるかと思います。

an_accused氏に頂いた、「最高裁に特別抗告することのどこが悪いのでしょう。「市井の民の皆様」が痺れを切らしているから、被告人は上級審に判断を仰ぐ権利を放棄せよということでしょうか。」
については、
悪い事とは言っていません。権利ですから。ただ、「控訴趣意書不提出(この時は意味が解りませんでしたが)と言うような事をしておいて」、と言うのが根底にあったので、そのような発言になっている事をご理解いただきたいと思います。

「市井の民の声」「一般人」と言うのは、私は余り好きません。それは、『私の意見が、一般のものとは相容れないかもしれない』と言う認識に立っているからです。逆説的には、『市民の代表では無い』事を明らかにしておきたいからです。
これは、個人の一発言が、無用なところで一般化されてしまうことに対するセーフティーと考えて下さい。一個人としての発言としてなら、その責任は私個人になります。しかし無用なところで一般化されたのでは、責任を言われても取りようがありませんから。

また、「この話題ではこれ以上お互い語られても良い結論には結びつかないとおもいます」には、私の持論としては、誤解されないように説明したいのですが、「良い結論に達し無くてもいいのでは無いか」と思っています。ここで言う『良い結論』とは、お互いが納得する事と受け取りましたが、つまり、「良い結論に達し無くてもいいのでは無いか」と言うのは、「立脚点が分かるだけで良い」、「少なくとも理解まで行ければ良い」と思っています。そして、理解までなら、なんとかいけるだろうと思っているからです。

裁判員制度に関しては、今回本当に身近な問題として考えさせられました。

違うところ、意に沿わぬところ、間違いである所が在りましたら、小生の勉強の為と思って、是非、ご指摘ください。
思わぬところから余りに突っ込んだ話になりましたが、非常に勉強になりました。
今後も、ご指導願うばかりです。
長々、ありがとうございました。ご意見をお願いします。


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コメント 4

an_accused

 こちらでははじめまして。
 たしかに、私たちは直接証拠に触れることはできません。しかし、直接証拠に触れることができないからといって、事件について何一つ感想を述べることができないというわけでもないでしょう。「限られた情報に基づいている」ということを共通了解とした上で、テレマークさまも私も、そして他の皆さんも、どんどん意見を表明し、対話を展開してゆけばよいのではないかと考えています。

 松本弁護団の弁護方針には、ほとんど賛同できないというのが正直な気持ちです。しかし、「ダラダラ弁護」と言われながらも月3~4回の公判ペースについていき、絶望的な弁護活動を孤立無援のまま何年もやっておられることを考えると、一挙手一投足にまであまり声高に非難するのも酷かなあとも思っています(煮え切らないことを申し上げてすみません)。

 なお、刑事訴訟における弁護士のあり方について、丁寧に論じられているブログとして、
「弁護士のため息」というブログがあります。中でも、
「刑事弁護人の役割-3つの質問」
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_a339.html
から始まる一連のエントリーや、
「刑事弁護人は『雇われガンマン』か?『聖職者』か?」
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_6624.html
は、非常に参考になると思われますので、ご紹介いたします。

 「市井の民」「一般人」という言葉は、私も好みません。「市井の民」などという言葉に逃げたい気持ちもわからなくはないですが、そこで踏ん張ることが大事なのだろうと思っています。
by an_accused (2006-06-06 12:59) 

HOKUTEN

こんにちは。いつも丁寧なコメントをありがとうございます。
>限られた情報に基づいている」ということを共通了解とした上で(中略)対話を展開してゆけばよいのではないかと考えています。
確かにその通りなんですよね。南雲さんのところで「正しい事とは何か」でも書いたのですが、「~の情報によれば」などの書き出しでコメントすれば良いのだと思います。そして、これに関しては「”私は”こう考える」と、一人称単数でコメントをすることだと思います。
これはある時に「一般の釣り氏は・・・」と書き掛けて、「果たして全員が同じ様な事など考えているだろうか?」「考えている人が居たとして、答えは同じか?」「そもそも一般の範疇って?」「私は一般に入るのか?」「そんな、ひとくくりに出来るのか?」等等と思ったのがきっかけで、それからは一人称で書くようになりました。
「市井の民」=「逃げたい気持ち」と言うのは、本当は直ぐにはピンと来なかったんですね。自分の意見は一般的な意見では無いかもしれないと思っているので、逆に、一人称を使った一般からの逃げかもなぁって思ったりした時期もあったので。そう言った考え方が染み付いていたので、「市井の民」って言われた時にはちょっと複雑でしたね。
>絶望的な弁護活動を孤立無援のまま何年もやっておられることを考えると(略)
というのは、とても良く分かります。確か、最初は誰も引き受ける方が居なくて裁判の開始自体も危ぶまれたと記憶していますが・・・。(記憶が薄らいでいる感は否めません)
URL紹介頂きましてありがとうございます。読んで見ます。
by HOKUTEN (2006-06-06 19:19) 

南雲しのぶ

すみませんね。私の口癖のせいでいろいろとご迷惑かけてしまっているようで。

松井弁護士の努力というのも分からないわけではありませんが、私のようなものにも分かりやすい弁護活動をすべきだったのだと思っています。
理解をされてさえいれば、「遅延行為」だとか「無駄な裁判」「死刑でいいじゃん」なんてことにはならなかったのだと思うのですがね。

こういう状況で続いている裁判って・・・。
by 南雲しのぶ (2006-06-06 21:37) 

HOKUTEN

コメントありがとうです。
迷惑と言う事は無いですよ。ただ、自分自身に「変わりもの」というイメージが在ったので、「へ?私を「市井の民」にしてもいいんかい?」って思ったんさ(^^;;
出だしも弁護士が見つからないし、前代未聞の犯罪とされる裁判で、最初っから難しい裁判になるとは予想されていたのでしょうけど・・・。
もっときっちりと事実関係がはっきりすると良いのですが・・・。ともかく、公判中ですからね。まずは「特別抗告」の行く末を見るしかなさそうです・・・。
by HOKUTEN (2006-06-07 00:36) 

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